まるでシャボン日記

アラフィフぼっち女の悲喜こもごも

大倉忠義さんの叫びに慟哭。『夜への長い旅路』を観た

シアター・コクーンで上演中の『夜への長い旅路』。

ユージン・オニールの作品、大竹しのぶさんが主演ということで、観たくて観たくて、頑張ってチケットをとり、行ってきた。

 

www.bunkamura.co.jp

 

※以下、ネタバレあり

 

まずは、本当に、暗い舞台だ。

灯りも音も暗く、悲惨さが際立った演出。

セリフも長く、苦しく、途中、逃げ出したくなる衝動をおぼえるほどだった。

 

しかし、良かった。

本当に、観て良かったと思える舞台だった。

 

あらすじはシンプルだ。

薬物中毒の母、金の亡者の父、放蕩を繰り返す兄、結核を患った弟。

この4人の家族が、朝からずっとリビングで、噛み合わない会話を続ける。

そして、夜がやってくる・・・というだけの話。

 

しかし、そこから、この4人の孤独が、くっきりと浮かび上がってくる。

特に、大竹しのぶさん演じる母の孤独には、もう誰も手を差し伸べられない絶望に至っていることがわかる。

その強烈な絶望がのしかかってくる感じは、やはり大竹しのぶさんの演技の力が大きかっただろうと思う。

 

60歳を過ぎて、リウマチで手が変形し、太ってしまい、醜い容姿になったと嘆く母・メアリー。

「もっと美しい手をしていたのに」となんども繰り返す。

「美しい手で、ピアニストを目指していたのに」と。

そして、結婚生活がうまくいっていなかったこと、子どもを一人失くしたこと、自殺未遂をしたこと、療養したのに薬をやめられないこと・・・狂っていった過程がだんだんと明らかにされていく。

 

歳をとった女性の狂気は、テネシー・ウィリアムズやチエーホフなんかにもよく出てくるけれど、若い娘と歳をとった女の「社会的価値」の差って、改めて残酷なものだと感じる。

ただ歳をとるというだけで、女は追い詰まってしまうのだ。

男性だと、若い男と歳をとった男にそこまでの差はないような気がする(ロマンスグレーとかいうし)。

アラフィフになった今、そんなことも身につまされた。

 

大倉忠義さん演じる長男・ジェイミーは、人生にやる気がなく、呑んだくれているだけの男。

けれど、それは、期待したりされたり、そして、それを裏切ったり裏切られたりしてきたことへの疲れ、のようなものなのだとわかる。

長男だけに、家族への理想も高くなって、期待も大きくなってしまうのだ(私も長女だからよくわかる)。

母にはこうあってほしい、父にはこうあってほしい。子どもは子どもで、理想の親を求めてしまう。

 

最後に、ジェイミーは泣き叫ぶ。

「今度こそ、今度こそ良くなったと思ったのに・・・ママ!」(記憶から書いてます)

母の狂気に絶望した息子の叫びが、虚しく劇場に響きわたった時、彼の嘆きの深さを思い知らされた。

大倉忠義さんて、抑えた、ぶっきらぼうのような演技だけれど、名優なんだと気づいた瞬間だった。

 

彼らは、なぜまだ家族でいようとするのだろう。

なぜ誰も家から出て行こうとしないのだろう。

 

くしくも、結核を患った弟のエドマンドは、療養所へ行くことになる(はずだ)。

けれど、それも、父親の金で入れてもらうしかなく、ひどい場所だと暗示されている。

 

なぜ、彼らは自立しないのか?

それが一番の彼らの絶望であるのに。

 

翻って、今は、コロナ禍。

家族でいるしかない時間が増えた。

この作品をやろうと決めたのが、いつなのかはわからないが、今やることに、きっと意味があったのだろうと思う。

 

家族でいること、家族で支え合うこと、家族に期待すること・・・

それはいいことばかりではないのかもしれない。

そして、家族=素晴らしい、という価値観も疑ってみなければならないのかもしれない。

少なくとも、「家族が苦しい」ということがある。

そして、それは、誰かが悪いというわけですらないのだ。

 

私の中で回答はないけれど、「家族」が浮き彫りになったコロナ禍で、「家族」のあり方を見つめ直す、大きな機会になった演劇だった。

 

こちらは、観劇前に食べた、タイ・ランチ@渋谷道玄坂

 

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チャオタイさんのトムヤムクンのフォー

 

かなり好みの味で、スープまで完食してしまった。

ああ〜、またタイに行きたい!

 

「チャオタイ 渋谷道玄坂店」

tabelog.com

 

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