まるでシャボン日記

アラフィフぼっち女の悲喜こもごも

アラフィフ、猫を飼う?

猫を飼いたい、と急に母が言いだした。

10年前に飼い猫が死んでしまって以来のことだった。

とはいえ、母はすでに70歳を超えている。

15年は生きる猫を今から飼うとなれば、アラフィフの私が引き継ぐ可能性が高い。

その私も15年後には65歳、20年後には70歳になる。

飼う責任を考えると、子猫はさけて成猫、もしくはもっと老猫がいいのではないかと思った。

 

近所で譲渡会があるのをネットでみつけ、まずは参加してみることにした。

私が見つけていたのは、15歳くらいの老猫Tくん。飼い主さんが病気で飼えなくなってしまった子で、あと数年かもしれないけれど、最後を一緒に過ごしたいな、と思った。

母も譲渡会を楽しみにした。

 

当日は、感染対策のため、1組ずつの予約制。たっぷり1時間弱、猫たちと触れ合った。

Tくんは、私に懐いた。呼ぶとやってきて、頭を手にこすりつけた。

か、かわいい・・・。

久しぶりの猫といる感覚に私の心は踊った。

Tくんは足が悪く、片足をひきづっていた。高いところにはもう上がれないみたいだ。

静かに暮らしたい我が家にぴったりじゃないか。

一緒に静かに日々を過ごせたらいいね。

私は、彼が大好きになった。

 

「Tくんをもらおうよ」と私は言った。

けれど母はいい顔をしなかった。

「いやよ、あんなびっ●、みすぼらしい」

 

その場にいた私と妹は、絶句した。

もう若い時のように抗議することはしなかったけれど、

「また始まった」と私たちはうんざりして顔を見合わせた。

 

昔の人だから仕方ない部分はあるし、出身地にもよるのかもしれない。

けれど、東京で現代に育った私たちには受け入れがたい価値観だし、

なんだか、自分がもし事故にでもあったら、そんな風に言われるのかと悲しかった。

こちらはその発言にかなりダメージを受けたが、母には理解が及ばないらしい。

 

それと、これは憶測だけれど、

Tくんが私に懐いたのも気に食わなかったのだろうと思う。

不思議な女の嫉妬だ。猫にさえも。

私は、やれやれとしか思えなかった。

 

妹は、「だったらペットショップで買ったら」とだけ言った。

母は、「それはもったいない」のだそうだ。

私は譲渡会に行くのはもう恥ずかしいと思ってしまった。

 

というわけで、猫が飼えるかは先行き不透明だ。

母の気に入る子なんて見つかるんだろうか。

そして、その子の幸せは・・・?

一緒に探すのもなんだか気が重くなってしまった。

 

私は毎日、Tくんに貰い手が現れたかどうかHPでチェックしている。

(貰い先が見つかると、「おうちが見つかりました」と表示されるのだ)

誰かもっといい人に貰ってもらえるといいね。

寂しいな・・・。ごめんね・・・。

 

桜庭一樹先生の最新作を読んだ。

 

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桜庭一樹「少女を埋める」

故郷の鳥取に7年ぶりに帰り、父を看取り、母と再会する自伝的な小説(ノンフィクション?)。

個人の幸せよりも、共同体が成り立つことを重視する風土を考察している。

桜庭先生は、ここに長くはいられないと、故郷に帰ってこいという人たちに背を向けて、東京へそそくさと戻っていく。

 

母の猫探しも、その猫の幸せよりも、自分がどんな猫を飼っているか、それを人がどう思うか、を重視しているということなのだろう。

そして、それは子どもたちに対しても同じだった。

娘の個人としての幸せを望むよりも、母の手柄としての娘でいること、そしていつまでも「私の娘」であることをより大きく望んでいるのだろうと思う。

 

少し空恐ろしくなる。

 

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