まるでシャボン日記

アラフィフぼっち女の悲喜こもごも

母の日と子のない人生について

母の日。

毎年、母にブーケを送ることにしていて、今年も近所のお花屋さんで、子どもたちやパパたちにまじって、花を買った。

 

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ちょっと渋めのカーネーション

母がいてよかった。いつもありがとう。

そう思う一方、私は花をもらうほうにはついになれなかったんだなあ、と少しだけ悲しくなる日でもある。

 

子どもが欲しくなかったわけではないし、どちらかといえば欲しかった。

結婚していたころは、生理が遅れると、「できたかな?」とこっそりうれしくなったりして、婦人科へいそいそと出向いたりした。

診察室で、「生理不順ですね、注射すれば生理きますよ。あなたの場合、不妊を疑ったほうがいいわね」と言われ、妊婦さんの集う待合室に戻って、がっくり肩を落としたこともある。

20代のころから子宮内膜症だったので、不妊はその病気によるものだった。

 

でも、不妊治療はしなかった。

だから、そこまで欲しかったわけじゃなかったのかもしれないし、そのころからすでに夫とうまくいかない予感のようなものがあって、子どものことを真剣に考えられなかったのかもしれない。

仕事が最高潮に面白い時期で、立場もでき、それを治療で妨げられたくなかったというのも大きかった。お金も時間も、体力も、すごくかかると聞いていた。

要するに、本気で子どもが欲しいとはきっと思っていなかったし、自分の体も妊娠に適していなく、予期せずできる、ということもなかったというわけだ。

 

アラフィフで更年期を迎え、もう妊娠の可能性はない。

そうなると、やり残してしまった感はある。

母にはなれなかった。

 

更年期になったばかりの40代後半は、ホルモンのバランスもあったのかもしれないけれど、かなり精神が不安定になってしまったこともある。

毎日、会社へ行って仕事はこなすけど、帰りには、自分の人生にはなにもなかったという思いにとらわれてしまって、生きている意味なんかあるんだろうかと、思いつめたこともある。

 

「子どもがいなくても、夫がいなくても、楽しく生きている人だっているわよ」「どうせ女はひとりになるんだから」「子どもがいたっていつだって孤独よ」

そんな風に言う人は多いけれど、それも、マウンティングみたいにとってしまっていた。

でも、あなたにはいるでしょ、子どもが。

あなたにはあるでしょ、家庭が。

 

ないことじゃなくて、あることを数えよう。

それもよく言われて、そうだ、私には仕事がある、ちゃんと一人で生きてる、虐待されたりDVされてない、友達だっている、って自分を肯定してみたりもしたけれど、まったく癒されることがなかった。

それらぜんぶが虚しく感じられもした。

だからなんなの?と。

 

けれど、最近になって、そういう思いが自然と薄くなっていった。

やっぱり更年期のホルモンバランスのせいかもしれない。

ホットフラッシュなども少しおさまってきたと同時に、精神も落ち着いたようだ。

 

それと、私はたぶん、モテる、結婚できる、子どもを産む、ということを、少し勝ち負けのように思っていた節がある。

みんなができていることができない私はダメな人間なんだと考えていた。

もしくは、それができているからって偉そうにしないでよ、なんて周りをひがんだりもしていた。

競争社会の申し子なんだなと改めて思う。

要するに、悔しい、と思っていた。

それは、自分でも笑ってしまうし、ち・が・う・だ・ろ、とつっこみたい。

 

ただ、純粋に、子どもがいない、家族ができなかったことを悲しんで嘆く気持ちは、止めなくていいと思うようになった。

大丈夫な振りはもうやめようと思う。

だれにでも、どうしても抑えられない気持ちというのはあるはずだ。

子どもを亡くした人に、いつまでも悲しむな、とは言えないじゃないか。

 

自分の悲しみは自分でそっと抱えていればいい。

だれかにわかってもらえなくても、仕方がない。

私だけの思いとして、持って生きていけばいいんだと、思うようになった。

そして、そう思うことで、なぜか気持ちが軽くなった。

 

嘆いていいよ。

悲しんでいいよ。

 

母の日は、私にとってはそういう日だ。

 

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