まるでシャボン日記

アラフィフぼっち女の悲喜こもごも

全身麻酔で親知らずを抜いた話

親知らずを抜いた。

ずっと痛くもなかったから、抜かなくてもいいかなーと思っていたんだけど、久しぶりに歯科検診を受けたところ、痛くなくても抜いたほうがいいと言われたのだった。

「今のうちに抜いておいた方がねえ、おばあさんになってからだときついからねえ」

と、歯医者さんのこの一言で決意。

 

しかし、ほぼ埋没歯で、普通の歯医者さんでは抜けないとのことで、紹介状をいただいて、口腔外科で手術ということになった。

 

まあ、日帰りでもできるようだったけど、どうも怖いのと、入院できるならしたほうが、家で何かあるより良いだろうということで、全身麻酔で手術、3泊4日の入院ということになった。

会社では、大袈裟だろう、みたいな反応をする人もいたのだが、こればっかりは人によるというか。

2分で抜けたよ、という人もいるけど、私は違うらしいんで!と、強行に休みを取った。

とはいえ、大したことないはずとは思っていた、自分でも…。

 

が、しかし、結論から言うと、思ったよりは大変だったし、入院してよかった。

 

手術前日は、食事、水を時間で区切ってやめていき、準備して寝るんだけど、結構緊張するし、なかなか眠れず。

朝は、手術に呼ばれるまで、水も飲まずにひたすら緊張(笑)

そして、呼ばれたら歩いて手術室へ。自分で手術台に登るんだけど、これが本格的に手術室(当たり前だけど)なので、うわーこれからどうなるんだろう…と一気に不安に。

「はい、眠くなりますからねー」

そう言われて点滴が入ると、次の瞬間!

「終わりましたよー」

である。

 

で、いきなり口にものすごい違和感が来る。

痛みはそれほど感じなかったけど、ガーゼが入ったまま顔に拘束帯みたいなのを巻かれてるからきつい。

 

午前中に終わった手術の後、夕飯時には、ガーゼはとってもらえて、おかゆも出た。

けれど、とてもじゃないが、食べられなかった(がっつり食べられる人もいるらしい)。

夜には、8度くらいの熱が出てしまっていた。

それでも、痛いという感覚はそれほどでもなく、麻酔がまだ効いているせいか、早々に寝てしまった。

 

次の日は、頭の拘束帯みたいなのも外れて、熱も下がり、だいぶ気分も良くなっていた。

朝ごはんのおかゆもなんとか食べられたけど、喉が尋常でなく痛くてきつかった。

喉が痛いのは、人工呼吸器を入れたせいらしい。

 

とはいえ、腫れは想像よりも少ないし(軽くこぶとり爺さんみたいにはなる)、痛みもコントロールされているのかすごく痛いということはないから、全身麻酔手術の方がいろんな意味で負担はやはり軽いような気がした。

 

けど、一番、あっちゃーっと思ったのは、麻痺だ。

手術前に、いろいろリスクの説明もあるけど、だいたいそんなの「まれ」ってやつなんでしょ〜?と思いがちだ。

しかし、まあ、あるかもね、って医者がいうものに関しては、起こるかもと思っておいたほうがいいかもしれない。

 

私の場合、下唇付近の麻痺が残った。

しばらくすれば改善するものではあるらしいけど、少しショックだ。

歯医者で麻酔を打った後のような感覚が1週間経った今でも残っている。

3ヶ月くらいかかるかも、とのこと。

 

けど、3泊4日の退院後は、そのまま会社へ出社して、締め切りまでこなした。

そして、長年なんとなく気になっていた宿題みたいなことを終わらせると、それはそれで気分的には清々しい。

 

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桜の木にさくらんぼが!(本文と関係のない写真ですみません)

それにしても、なるべく若い時にやっておいた方がいいこと、か。

他にもありそうだなあ。

坂本脚本の真骨頂「大豆田とわ子と三人の元夫」

フジテレビ(関テレ)で放送中の「大豆田とわ子と三人の元夫」が面白い。

東京ラブストーリー「MOTHER」最高の離婚」「問題のあるレストラン」「カルテット」と、ず〜っと観続けている大好きな脚本家、坂元裕二さんの作品で、もちろん期待していたけど、やっぱりちょっと裏切られて、それがすごい。

坂元裕二らしくなくて逆に坂元裕二らしい、そんな作品のような気がしている。

 

フジテレビでよく書いている坂元裕二さんだけど、何かのインタビューで、「トレンディドラマが嫌だった」というようなことをおっしゃっていた記憶がある。

確かに、「最後の月9」として書いた「いつかこの恋を思い出して泣いてしまう」は、トレンディドラマの真逆をいく、底辺の若者たちを描いたものだった。

あれには、「さらば、月9、さらばトレンディドラマ」っていうメッセージを感じた。

世界の隅っこの人に寄り添いたいと、いつもおっしゃっている坂元裕二さん。

夢を叶えられなかった三流音楽家たちを描いた「カルテット」も、その流れだったと思う。

 

ところが、「大豆田とわ子〜」ときたらどうだろう。

主人公たちは、みんな才能があり、成功した都会人たちだ。

とわ子は、建築会社の女社長だし、1番目の夫は奥渋あたりで洒落たバーを経営し、2番目の夫はファッションカメラマン、3番目の夫はイケメン弁護士。

それぞれの職場も部屋も、ハイセンス。家具や雑貨も素敵。

当然、ファッションだって洗練されたものばかり。

フジテレビらしいトレンディドラマの王道のような演出…

あれ? 坂本さん、トレンディドラマに帰ってきましたか??という感じ。

 

なんでだろ?

と、疑問に思った。

それで、これはもちろん憶測なのだけど…

この変化は、あの悲しい芸能界の死によるものなんじゃないだろうか、と思った。

 

衝撃的だった有名俳優さんらの死。

あの時知ったのは、どんなに美しく才能があって、誰からも愛され成功した人でも、死んでしまいたくなるような苦しみを持っているのだ、ということだった。

そして、私たちは普段、そういう人たちの苦しみに、あまりにも無頓着だということだ。

 

もし、彼らが、飲み屋とかで、「死にたいよ」なんて言ったとしよう。

聞かされた友人は、取り合うだろうか?

もし私が友人だったら、きっと本当に能天気に、「何言ってんのよ」とか言うだろう。

あなたの悩みなんて、そんなの大したことあるはずない。

愚痴りたいならいいけどさ。

そのくらいにしか思わないだろうと思うのだ。

 

だけど、取るに足らないと思われた方はどうだろう。

ヘラヘラ笑って、(ああ、仕事でも笑って)、「いやいや、ごめん、落ち込むこともあってさ」なんて、大したことない風に笑って、笑って、笑って、そして孤独になって、追い詰まっていくのじゃないだろうか。

 

まさかの結末に、日本中の人が「気づかずにごめんなさい」という気持ちになったように思う。

少なくとも私は、あの時、そんな風に感じていた。

芸能界の人たちや制作現場の人たちは、なおさらだったんじゃないだろうか。

 

「大豆田とわ子〜」の第2話は、3番目の夫・中村慎森(岡田将生)の話だった。

弁護士でイケメンの彼は、オフィスで温泉まんじゅうを食べているみんなに、「お土産って意味あります?」とか言ってしまう嫌なやつだ。

ビジネスホテルに暮らし、冷たい夕飯ばかりで友達もいないけど、賢く合理的に生きていて、一人で大丈夫そうだ。

だけど…

 

洗濯機でご飯が炊けますか?
洗濯機で髪が乾かせますか?
人間にもそれぞれ機能がある
ボクには人を幸せにする機能は備わっていません

 

なんていうセリフには、あ、傷ついてるんだな、この男、と気づかされてしまう。

そして、こう吐露する。

 

この人に出会えた俺、世界で一番幸せだって思えた瞬間があった。

あったのに、自分で捨てちゃったよ。

 

そう、離婚した人たちにだって、幸せだった時はもちろんある(私もバツイチ)。

当然、この人と出会えてよかった、と心から思った時がある。

嫌なやつであればあるほど、そう思うもの。そもそも友達すらできないタイプなわけだし。だけど、やっぱり手放しちゃう。

離婚した時は、せいせいしたとか、正しい選択したとか、自分を正当化する。

だけど、ぜんっぜん立ち直れてないものなのだ。

 

2番目の夫の知り合いの女優・古木美玲(瀧内公美)は、バルコニーの夜景を見ながらひとりごちる。

 

素敵でしょ?

でもね、この景色見てると寂しくなるんだよね。

私と一緒。

ただキラキラ光ってるだけで、何が手に入るわけでもない。

何にも満たされない。

 

どんなにキラキラしている人でも、虚しさや、孤独や、寂しさを、抱えているかもしれない。

いや、もしかしたら、キラキラした分だけ闇は濃くなる。

 

人にはいろんな負け方がある。

キラキラしてて、かつ、負けてることもある。

だけど、

 

勝負の世界で大切なのは、負けた時になにをするか、どう過ごすか。

グッドルーザーになることなんだって。

 

負けたけど、どう生きるか。

いつも一番苦しい人の味方になってくれる、坂本脚本のやっぱりこれも真骨頂なんだな、と思う。

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いつかの東京タワー

 

『愛していると言ってくれ』が好きすぎて

50年生きてきて、一番愛しているドラマは、誰がなんと言っても「愛していると言ってくれ」です。

少し前の再放送に興奮してドラマ論をぶってみました…。(2020年6月執筆)

 

ドラマ論「愛していると言ってくれ

2020年のコロナ禍、25年ぶりに、ドラマ『愛していると言ってくれ』(TBS)が特別版として放送された。1995年当時、金曜の夜に走って帰っては観て、さらにビデオで繰り返し観た作品だ。あの頃「沼」って言葉はなかったけれど、すっかり『愛くれ(?)』沼にハマっていたし、今回もまんまとハマり、むしろその沼から抜け出せないくらいだ。

 

このドラマの魅力は色々あるが、最大の魅力は豊川悦司の演技であろう。

あの頃はSNSもネットニュースもなかったから知らなかったが、ドラマの設定から脚本、衣装に到るまで、トヨエツがかなり意見を出していたらしい。何しろ、当初の設定では聴覚障害があるのは常盤貴子の方だったというのだから驚きだ。

 

北川悦吏子脚本作品では、女の子に優しい(ちょっと都合がいい)男が必ず出てくるが、この作品の趣が少し違うように思うのは、トヨエツの「口出し」によるものなのかも知れない。優しい男というよりも、むしろ身勝手で、頑固で、情けない、だからこそ愛おしい男性像が出来上がっているように思う。

 

メタフィクションとしての『愛くれ』

時代を遡ろう。1995年といえば、バブル崩壊の二年後、阪神淡路大震災オウム真理教地下鉄サリン事件が立て続けにおこった年である。文化的にはオカルト、サブカルが流行し、「エヴァンゲリオン」の初回放送もこの年だった。それまで強固だったはずの価値観が揺らぎ、誰もがぼんやりとした不安の中にある時代、「内側」や「精神世界」がクローズアップされた時代だった。

 

第1話は、表参道の喧騒から始まる。そこからカメラは交差点の反対側に立つ聴覚障害のある画家・榊晃次(豊川悦司)へと移り、音楽はフェードアウトして、静寂が訪れる。

晃次はそこで、女優志望のまだ少女のようなヒロイン・水野紘子(常盤貴子)と出会う。表参道の街にあるはずのないりんごの木の下で、りんごを掴もうとする少女に、男はりんごをとってやる。もちろんこのモチーフはアダムとイブだろう。そこからこの寓話的なドラマは始まる。

 

主要な舞台は、二人の居住地である井の頭公園周辺である。そこは、都会に隣接しながらも、木々と池、噴水や野外劇場のある閉鎖された空間。その小宇宙で、晃次は「風景はいい。どこへもいかない」と、静かに自然や花や空を描いて暮らしている。映像の美しさもあいまって、その世界は、現実からふんわりと浮遊する。ここは、魂の場所なのだ。(なにしろ、晃次の苗字は「榊(=神木)」なのだから)。

紘子は、その空間に「不思議の国のアリス」のように迷い込んだ少女だ。初回、彼女は森を走り、鏡をのぞき、鍵を投げ…とアリスのモチーフとともに登場している。

紘子は女優の卵であり、いつの間にか、その世界の中で、与えられた役を演じさせられているようにも見える。白雪姫のようにりんごをかじったり、シンデレラのように片方の靴が脱げたりと、おとぎ話の登場人物を思わせるシーンも頻出する。

 

そしてここは、「言葉」のワンダーランドでもある。

晃次は聴覚障害者なのだが、それゆえなおさらに言葉が強調される。手話、筆談、手紙、メモ…(見ている方からすると、ナレーションや字幕)と、その世界は言葉が強調されている。

紘子が晃次に書いた最初の手紙にはこうある。

「あなたは確かに言葉を喋らないけれど、私はいつも思っていました。私たちはたくさんの言葉を喋るけど、喋れば喋るほど本当のこととかけ離れていってるんじゃないかって」

この手紙は彼らのこれからを暗示している。最初、二人は言葉なく恋に落ちたし、晃次は画家なので、絵で語っていた。しかし、二人が出会ったことにより、言葉が生まれていく。

二人は、言葉の迷宮で本当のこと(愛)を探し始める。しかし、言葉を重ねれば重ねるほど本質から遠のいていくという自己矛盾(パラドクス)を起こしてもいく。彼らの恋愛は、言葉の迷宮からの出口を探す冒険でもあるのだ。

『愛くれ』は、言葉について(メタ言語)、物語について(メタフィクション)のドラマなのである。

 

物語に閉じ込められて

物語に戻ろう。

晃次は、障害の問題だけではなく、実母の出奔や恋人からの婚約破棄などの理由から、自分の世界に閉じこもっている。紘子はその心を開くべく、あらゆる言葉を尽くして、彼に語りかける。最初、戸惑い逃げようとする晃次だったが、

「あなたと私はそんなに違うの? だったら、私はあなたのことをわかりたい、知りたい」という紘子の言葉に、心を解かれ癒されていく。

「彼女の涙は、僕の無色透明な心に、空色の絵の具を一滴落としたように広がっていった」

そして、紘子は晃次のことを知ろうと、手話を覚え、ファックスを買い、彼との対話を重ねる。また、それだけではなく、晃次に隠れてこそこそと、写真を見たり、手紙を見たりしながら、彼の「過去」も知りたくて、かぎまわりもする。

 

第7話は、晃次が実母と再会する感動の一話だが、晃次は、「僕はよくわからなかった。母に会いたいのか会いたくないのか、恨んでいるのか憎んでいるのか、愛おしいと思っているのか」と述懐する。人からの要求を優先しがちな晃次は、義理の妹に今更実母になど会うなと言われ、それに従おうとすらする。しかし、先に母と邂逅していた紘子に案内され、晃次は自分の気持ちの輪郭を得ることができる。

「僕を産んでくれてありがとう。10歳まで育ててくれてありがとう」

紘子との出会いの中で、晃次の閉じた世界が色をもち、変わりつつあることを象徴するエピソードだ。

 

そこへ魔女が現れる。元婚約者の島田光(麻生祐未)である。

彼女の「私は彼(晃次)の声が好きだった」という嘘(晃次は声を出せ(さ)ない)により、紘子が読み解いてきた世界がほころび始める。「真実」は歪み、「約束」は守られず、「言葉」は空回りし始める。

中盤からの紘子は「もう疲れた」の連発で、疲弊し、二人の世界を支えることができなくなっていく。晃次の必死の「事情説明」とすがりつきに近い手紙によって、一度は修復をするも、魔女は容赦ない。晃次を自分のものにしたい光は呪いをかけにやってくる。その呪いはこうだ。

 

「あなた(晃次)は結局人を愛せない人なのよ。ずーっとあなただけの時間の中で生きてきたからよ。あなたが人の絵が描けないのは、心を許してないからよ。信じてないからよ。だから私はあなたから離れた。誰もがあなたから離れていくわ」

そして、晃次からもらった指輪を置いていく。それは白雪姫の毒針のように、紘子を刺すことになる。

 

晃次は紘子のいない間に光を家にあげていた。指輪によってそのことを知った紘子は、悟る。ここが晃次一人のワンダーランドであることを。そこに自分はいないのだということを。

「私は拾ってきた子犬じゃないのよ。女なのよ。あなた一度だって対等に扱ってくれたことないわ。いつもいつも上から見下ろされているような気がしてた」

「そんなこと考えていたのか」とまるで気づいていない晃次は、必死に「愛している」と手話で叫ぶ。声が出ると嘘をつかれている紘子は、その晃次に、

「手話じゃなくて、声に出してちゃんと言ってよ。愛してるって言ってよ」と叫ぶ。

しかし、晃次に声はない。彼は自分という海の底にいる人魚なのだ。みっともなく自分をさらけ出すことができない。

紘子は去っていき、晃次は、部屋に残された穴の空いた地球儀に、呪いの指輪を虚しく投げ込む。

世界は大きく破壊されたのだ。

 

紘子は子供の頃から自分を知っている幼馴染のけんちゃんこと矢部健一(岡田浩暉)の胸に逃げ込む。晃次の世界をわかろうと挑戦し、それに疲れ、自分にとってわかりやすい世界に逃げ込んでしまうのだ。

それもそうである。けんちゃんは同郷で小さい頃から紘子をみて知っているが、晃次は、紘子の世界を知ろうとはしていない。思えば、彼女の芝居を見るシーンすらない。時々劇団に紘子を迎えにはいくものの、中には踏み込まず、幼馴染のけんちゃんにすら興味はなく、ただの伝書鳩扱いである。

晃次はいつも、彼の手中にある紘子しか見ていなかった。

 

紘子がけんちゃんと関係をもったことを知らされ、崩壊した世界でただ呆然とする晃次。

そこに現れるのは、紘子のバイト仲間のマキ(鈴木蘭々)だ。あの容姿はキューピッドだろう。恋の援護をする。

「あいつ(紘子)、ああ見えても強いわけじゃないし、やっぱり女の子だし、時にはパニクっちゃうし。でもあなたが大好きだったから、だからあなたの前では元気で明るかったと思うんです」

晃次は、それまでの世界を見直して、紘子に手紙を書く。

 

「紘子、僕はなんど君にこうして語りかけただろう。なんど君の名前を心の中で呼びかけただろう。最初に手紙をくれたのは君だったね。僕の重く閉ざした心の扉を開けようと頑張る君が、僕は愛しかった。あの日、僕が初めて君を抱きしめたあの日、君は言ったね。あなたと私はそんなに違うの? 耳が聞こえないあなたと聞こえる私はそんなに違うの? だったら私はもっとあなたをわかりたい、あなたを知りたい。あの時の君の涙と言葉は、僕の心の中にずっとあの時のまま、色褪せず住んでいます。

紘子、僕は君をわかってあげられていたんだろうか。ちゃんと君の心の声に耳を傾けていたんだろうか。今君と離れてみて、これまでを振り返ってみると、さっぱり自信がありません。だけど僕は、今もう一度君をわかりたいと思っています。あの時、涙を流して、僕をわかりたいと言ってくれた君に、応えたいと思っています。

もしかしたら僕たちは、一番苦しい時を迎えたのかもしれないけれど、それでもやはり乗り越えていけるんだと思います。それでもやはりがんばれるんだと、僕は思います」

 

しかし、その手紙は正しく届けられず、代わりに紘子の元にきたのは、けんちゃんが出さなかったはずのラブレターで、彼女はけんちゃんを選ぶのだ。

 

晃次と紘子の別れの会話はこうだ。

 

紘子「私、けんちゃんの胸の中でホッとした気がする。私気づいたの、自分にとって本当に必要な人って元気がないときに一緒にいてくれる人だよね。けんちゃんはずっと小さい時から私を見ててくれた。あなたは違う。あなたは私と出会う前から一人でやってたし、いい絵描いてたし」

晃次「本気で言ってるのか?」

紘子「いつもいつも遠かった。今日一緒にいても明日になったらどっかいっちゃうような気がしてた」

晃次「どうして? どうしてそんな風に思うんだ?」

紘子「私には絵のことはわからないし、やっぱりあなたのいる世界がわからない」

晃次「耳が聞こえないってことか? わからなきゃダメか? 好きだよ、それじゃダメか? 明日も明後日もずっと紘子が好きだよ。それじゃダメか?」

紘子「ダメな気がする。私は安心できない。あなたといる間、私ははしゃぎすぎてた、いつも声一オクターブ高くなってた気がする。不自然だった」

 

紘子は晃次の世界で、もう役割を演じることができなくなり、舞台からおりる。呪いの通り、誰もが晃次から離れていくのだ(この時のトヨエツの涙がさみしすぎる)。

物語の風穴

最終話。けんちゃんと結婚するために東京を出て田舎へ帰る前日、紘子は晃次の世界である井の頭公園を訪れる。

暗号を受けとった晃次も紘子を探し、ホームの向かいにいる紘子を見つけた晃次は、彼女を呼ぶために、ついに声をだす。

「ヒロコ」

 

そして、二人は海へ向かう。そこもまた、晃次の精神世界だ。晃次は、聞こえない世界を「夜の海の底にいる感じ」と表現している。「地上にあこがれながらね」と(人魚姫のイメージ)。

そして、今まで声を出したことがないことを紘子に打ち明ける。後から明かされる真実に、世界はまた様子を変えようとするが、すでにけんちゃんとの世界の鍵は開かれてしまっていた。

晃次は紘子に、最後に君の声が聞きたいと頼む。

「アイシテイル、と言ってくれ」

晃次は深い海のそこから陸に上がってきた人魚のように浜辺にひざまづき、紘子は唇を彼の肩にあて、自分の声を彼に聞かせる。まるで呪いをとくかのように。

晃次は、紘子の声を聞き、彼女を尊重し幸せを願うことで、ようやく誰もいない静寂の世界から出て、人を愛することができたのかもしれない。自分の世界が泡と消えるのと引き換えに(そういえば、前日に二人が飲んでいたのはシャンパンだ)。

 

グリム童話のイメージがドラマ中なんども出てくるが、最後が人魚姫のイメージであることには注目したい。

人魚姫はグリム童話の中で、唯一能動的な主人公とされている。おやゆび姫や白雪姫、シンデレラにしても、彼女らは自ら行動したのではなく、運命的にプリンスと出会い、見初められる。そしていずれ自分たちが魔女(母親)になる運命であり、物語の外側に出られることはないだろう存在だ。

だが、人魚姫は自らプリンスを選び、彼のために陸に上がり、自分の世界を捨てて、彼のために海の泡になるという選択をする。人魚姫の愛はどこへ行ったのか、無為のようであってなぜか永遠に強くあり続けるようにも思える。彼女は魔女になることもないし、その物語は、閉じた世界からの風穴そのものではないか。

 

バスに乗り、トンネルを抜けていく紘子。それは晃次の世界から出て行くことを示唆している。アリスがトンネルを抜けていくように。

二人の世界は分断される。

井の頭公園の晃次の家はもぬけの殻になる。

紘子は、田舎へは帰らず、遅れてきたあの手紙を受けとる。

 

3年後、二人は出会った場所で再会する。男から女へりんごは再び投げられ、物語は繰り返されるようだ。これはループする物語。もしかすると繰り返す物語の中に、出口のない言葉の世界に、永遠に閉じ込められてしまったのかもしれない。

けれど、ラストシーンに映る晃次が描いた絵は、波から顔をだす紘子だ(もしかすると、晃次自身もミックスされているのかも)。それは、閉じ込められた自分という世界からの浮上を意味しているだろう。

 

2020年、リピートする物語

翻って、現在。2020年、世界は厳しい時を迎えている。コロナウィルスは人々を分断したり、対立させたり、不安に陥らせたりしているように見えるし、世界ではレイシズムナショナリズムが広がっているようだ。

ネットの普及によってコミュニケーションは格段に便利になり、人々はもっと繋がりやすくなったはずなのに、SNSでは人々はお互いを攻撃し傷つけ合うか、礼儀だけは正しく身につけ、傷つくことを恐れて自分を守るようになっているようにも思える。

 

けれど、どんなに世界が不安定だとしても、簡単に安心や楽さに逃げてはいけないんじゃないだろうか。自分だけの安住の地に閉じこもるのではなく、他者との対話を諦めてはいけないんじゃないだろうか。

対話することで傷つき、裏切られ、自分の守ってきた世界は壊されるかもしれない。けれど、わかりあい理解することを諦めてはいけないんじゃないだろうか。

世界が壊れてもそこからまたやり直せばいい。もしかしたら同じことの繰り返しかもしれないそれど、何度でも、何度でも、私たちは乗り越えていかなければいけないんじゃないだろうか。

 

「もしかしたら僕たちは、一番苦しい時を迎えたのかもしれないけれど、それでもやはり乗り越えていけるんだと思います。それでもやはりがんばれるんだと、僕は思います」

 

今、このドラマにもう一度出会えたこと、もう一度リピートすること、それもきっとこの作品の一部なのだ。

 

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マルタ島の青の洞窟にて空

 

※ちなみに、純粋に恋愛ドラマとしてとても楽しめるエンタメ作品です。念のため。

「推し、燃ゆ」とトヨエツ

豊川悦司さんが好きだ。

それを言うと、「そっちにいったらダメよー」とか「ガチっぽくてやっすね」とか「それ、言わない方がいい気がする」とか、いろんな人から、やめとけ的なことを言われる。

 

いや、別に、あの、ファンってだけなんだけど。

どういうこと?

その回答がここにあった。

 

宇佐美りん「推し、燃ゆ」

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宇佐美りん「推し、燃ゆ」

芥川賞受賞作で、今一番売れている小説だ。

アイドルオタクの少女が主人公。

一口にオタクといっても、色々な種類があるという。

 

ー アイドルとの関わり方は十人十色で、推しの全ての行動を信奉する人もいれば、善し悪しがわからないとファンとは言えないと批評する人もいる。推しを恋愛的に好きで作品には興味がない人、そういった感情はないが推しにリプライを送るなど積極的に触れ合う人、逆に作品だけが好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人、お金を使うことに集中する人、ファン同士の交流が好きな人。ー

 

わたしはどれだろう、と考えた。

小説の主人公は、

 

ーわたしのスタンスは作品も人も丸ごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。ー

 

ということだった。

 

わたしもどちらかといえば、そうかもしれない。

作品を見るのが一番好きなのは当たり前だが、そこからインタビューを見たり読んだりするのが非常に好きである。

そして、その作品への彼の思いや、どんな作品にしたいと思っていたのか、など、トヨエツらしさを分析し、彼がどんな人か考えるのが好きだ。

 

そして、この主人公に共感したことがもう一つある。

「肉体性」への嫌悪感である。

 

ー 生きているだけで皺寄せがくる。誰かとしゃべるために顔の肉を持ち上げ、垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る。ー

 

もちろん、生理がきて毎月子宮から膜をはがすことも耐えきれない。

いつも、自分の体に違和感をもち、悩まされている。

 

そんな主人公と推しとの出会いは、「ピーターパン」の舞台だった。「大人になりたくない」となんども繰り返すピーターパンをみて好きになるのだ。

そして、その推しは、彼女の「背骨」だと言う。

身体性を拒否したい彼女の背骨。推しは自分を自分の体につなぎとめるものなのか。

(なんだかちょっとエヴァンゲリオンっぽくもある)

 

身体性を拒否する少女は、すなわち、女であることも拒否したい。だから、大人にならないアイドルの男の子になりたい、のだと思う。

 

わたしも、できればトヨエツになりたい。

トヨエツは、わたしの理想だからだ。

大学を中退して、劇団に入ってしまう大胆さ、映像表現がしたいと劇団をすっぱり辞めてしまう潔さ。

作品への取り組み方が半端ないこと、なんでもやってやるという気迫、それでいて謙虚。

だけど、自分のかっこよさなんて当然認識してるし、男っぽい傲慢さもある。

傲慢と謙虚、それらに自覚的で、クレバー。

そして、わたしが一番彼をみて恍惚とするのが、浮遊する存在感。

男でも女でもなく、何者でもなく何にでもなれる。ともすると、この世のものでもないような人。

そう、わたしの中で、彼は天使である。

 

と、オタクっぽく書いてみたが、こんな感じで、オタクって、身体性の拒否、アイドル(推し)と同一になりたい、といった欲望を持っている気がする。

 

推しが結婚すると、ファンが落胆するのは、別に彼らに恋愛感情を持っているからではないのじゃないだろうか。

彼が人間だった、と気づかされるからじゃないだろうか。

それが何よりも絶望なのだ。

 

「そっちにいったらダメよー」

友人の声が聞こえてくる…。

あれはみんなの、この世に帰れコールだったのか。

 

小説「推し、燃ゆ」は、わたしにとっては鏡のような小説だった。

年代は、親子ほどに離れているのに…。

オタクは年齢を越える、とも思ったしだい。

才能とは、己を信じること

NHK「朝イチ」に、脚本家の大石静さんが出ていた。

御歳69歳になるそうだが、シャキッとした背筋にキリッとした表情。生き生きと精力的に仕事をされている様子で、

「テレビ局の人は若い方がいいと思っているけど、そんな考えぶっ潰しましょう!」

と気炎を上げていた。

「家売るオンナ」「セカンドバージン」「7人の秘書」といった力強い作品そのまんまの人だった。

 

才能っていうのは、己を信じること。

大石さんを見ていて、そう感じた。

大石さんは、「フリーランスでやってきた」ということについてもおっしゃっていたけれど、女一人、筆一本だけを手に生きてきた気合が全身にみなぎっていた。

自分を信じて貫くこと、それを才能っていうのじゃないだろうか。

 

サラリーマン根性が染み付いていると、「どうせ才能ないし」という言葉が出てきてしまう。

何かしようとしても、逃げ込む場所があるから、そんな言い訳をするのだろう。

一人でやっていたら、そんな言い訳は通用しない。やるしかないのだ。

 

 

それにしても、朝イチで流れた「セカンドバージン」の鈴木京香さん、今見ても、本当にかっこいい。

女を捨てて生きてきたと言いながら、胸の開いたシャツに太いベルトをしめ、封印仕切れない女を感じさせる。

年下の彼との恋に迷いながらも、貫くと決めてからは、なんとかする!と前に進んでいく。

その姿に、不倫の恋なのに、つい応援してしまったものだ。

 

そういえば、前の会社の上司で、10歳くらい上の女性がいた。

アラフィフになっても、少女のような服装でミニスカートを履いていた彼女は、子会社の社長にまでなっていた。

みっともない、ダサい、恥ずかしい、と私は陰口を叩いていたのだが、今になってみると、己を貫く強さだったのだと唸ってしまう。

みっともない、と言う私の方がみっともなかったと今は思うし、若いって、本当に何にもわかってなかったんだな、と思う。

 

周りからの評価なんて、なんとかする!やるしかない!という人の前にはなんの意味もない。

 

誰のことでもなく、自分を信じる。

肝に命じたい。

 

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葉桜に、遅れて咲いていた桜の花

 

中国映画「春江水暖〜しゅんこうすいだん〜」

マジックリアリズムという文学ジャンルがある。

個人的に、好きなジャンルだ。

代表的なのは、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」とか「エレンディラ」、日本でいうと、村上春樹の「海辺のカフカ」や、桜庭一樹の「赤朽葉家の伝説」あたりだろうか。中国や南米文学にも多いと聞く。

だいたいが親子何代にもわたる、長〜い時間の中の断片的な話が連なっていくようなものが多く、実際にあったことのような、伝説のような、なんだかSFみたいな事件なんかも起きたりして、不思議な読後感のものが多い。

 

映画「春江水暖〜しゅんこうすいだん〜」を観て、そんな文学を思いおこした。

中国の若い監督が作った感性あふれる新感覚の作品だ。

www.moviola.jp

映画は、開発真っ只中にある、中国・フーヤンという都市に暮らす、ある一族の話。

話というより、その家族の人生を数年間切り取ったような映像だ。

まるでドキュメンタリーのようでもあり、同時に詩的でどこか現実感のないファンタジーのようにもみえる。

 

例えば、こんなシーンがある。

大学を出た優秀な息子は流行りのコートに身を包み、裕福な家からもらった嫁と一緒に建設中のタワマンを見に行っている。近未来のような街に洗練された夫婦の姿が映し出される。

その一方で、彼の両親は、冷たい水で洗った魚を路上で売り、湖上の小さな漁船で夫婦で折り重なるように寝泊まりしている。昔話のような風景がそこには広がる。

そんな、同じ時代に起きているとはとても思えないような情景が、同時進行で淡々とした映像でつづられる。

観ているほうは、時代がうねって時空が歪んでいるかのような錯覚に陥ってしまう。

 

また、出演者のほとんどが役者ではなく、監督の親類縁者だというのも、出演者自身が現実と虚構の間を揺れ動いているように見えるのかもしれない。

 

途中、ものすごく眠くなるロングショットの長回しシーンがある。

一体何を見せられているんだろうと退屈でしょうがないのだが、見終わってみると、妙にそこが忘れられない。

あれは「永遠」だったんじゃないだろうか。

急に立ち現れる「永遠」の時。かつてあったはずなのに、今は失われた時といった…。

(言葉では伝わりそうもない)

そういうシーンが、ポンといきなり置かれたりする。

 

物語がないわけではないし、ハラハラドキドキも涙も笑いもある。

けれど、どこか飄々と淡々としていて、何があっても、登場人物たちは、時の流れをたゆたう「ただの存在」という感じに見える。

 

マジックリアリズム

魔術的リアリズム

 

まさに、夢うつつの世界。今の中国を体験するような映画だった。

 

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私の本棚。マジックリアリズム?な作品が多め

ちなみにこの映画、ラストから察するに、続編があるのかも?

北の国から」(?)のように、いつまでも見守っていたい家族になるのかもしれない。

FIREについて考えてみた

「FIRE」。最近よく見るワードだ。

Finacial Independece, Retire Early 

「経済的自立を果たして早期にリタイアする」という生き方のことで、同名の著書がベストセラーになっている。

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FIRE 最強の早期リタイア術

簡単にいえば、給料と投資でお金を増やし、十分な種銭を稼いだら会社を辞めて、その運用益だけで暮らすこと。そうすれば、自由な人生が手に入る、というメソッドだ。

今、若者に広がりつつある考え方のようで、Twitterなどを見ると、FIRE目指す人が急増している。

不労所得で暮らそうだなんて、なんという贅沢! 

なんてアラフィフは思ってしまうけど、実は、彼らのポイントは、ミニマルに暮らす、ということらしく、この本の内容も、特別な富裕層向けではなく、フツーのサラリーマン向けとなっている。

なんせ1億円持っても、年間その4パーセントで暮らせというのだ(理論上それなら資産が減らないらしい)。1億の4パーセントだと400万円。年間400万円で暮らすって、わりと質素。年収600万(税込み)くらいのサラリーマン生活と同基準というところか。

なので、彼らは車も持たないし、立派な家も買わない、年の半分は物価の安い国へ旅行するなどして節約するという。

そんなミリオネア像って、なんて斬新!

1億も持ってたら、当然、贅沢三昧するだろうと思っていた私には、目からウロコだった。

どちらかというと、ヒッピーぽい(それも古い?笑)考え方というか、日本でいうところの、清貧思想にも近いように思った。

 

ポイントは、自立と自由。

 

FIREの第一人者と言われるのが、クリスティー・シェンさんという中国系アメリカ人の女性で、『FIRE』の著者。

子供の頃は中国の農村で、食うや食わずの生活をしていたという。その後、アメリカへ移住し、大学を出て会社員をするのだけど、仕事に疲弊してしまい、なんとか辞めたいと思いはじめる。でも、その育ちのせいもあって、お金がないのは不安で仕方がなかったそう。

そんな彼女の思いと夫の協力があって、とにかく不安のないほどのお金を貯めようと決意する。投資をはじめるのだけれど、博打のようなことは絶対にやらず、これでもか!という慎重なポートフォリオを作り、無駄な支出を抑えることにより、みごとに30代でミリオネアになった。

念願の早期退職を果たし、現在は著作活動や旅行など、好きなことだけをやる自由を手にしている。

ポイントは、投資の成功というよりも、何よりも、ミニマルな生き方

1億円つくるということよりも、生活をミニマルにすることが自由を手にする道、というのが面白かった。つまり、支出をコントロールせよ、と。

確かに、いい家を建てるとか、いいもの食べるとか、いい服着るとか、贅沢をしようとするから経済的に自由になれないのだ。それだと次から次へやってくる欲望で人生が自転車操業的になるからだ。

そんなに贅沢しなくていいです、シンプルに暮らしたいだけなんです、となった瞬間に、実は経済的自立をほぼ達成しているんじゃないかとすら思った。

 

われらアラフィフ世代は、人口も多くて競争も激しく、バブルも経験してるから、24時間働いて、ブランド品買って、パリやハワイでお土産買いまくって~~!みたいな世代。

それを豊かさだと思っていたし、ある意味、そこに成功という夢もあった。

けれど、今の若者の夢は、会社に属さず、お仕着せの豊かさを拒否し、自分の好きなことだけをして、静かに暮らすことなのだ。

ある意味、成熟した社会における「進化」ととらえるべきなのかもしれない。

 

気がついたら、すれっからしのアラフィフも、確かにもうブランドモノなんか欲しくないし、家族もできなかったから、マイホームも車も保険もいらない。

会社での出世も、思ったほどの成功でもなく、幸福感が高いわけでもない。

FIREしたい若者の気持ちもわかる。

というわけで、50歳からのFIRE、挑戦の余地は、ありやなしや。(←その前にフツーに定年!)