まるでシャボン日記

アラフィフぼっち女の悲喜こもごも

「推し、燃ゆ」とトヨエツ

豊川悦司さんが好きだ。

それを言うと、「そっちにいったらダメよー」とか「ガチっぽくてやっすね」とか「それ、言わない方がいい気がする」とか、いろんな人から、やめとけ的なことを言われる。

 

いや、別に、あの、ファンってだけなんだけど。

どういうこと?

その回答がここにあった。

 

宇佐美りん「推し、燃ゆ」

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宇佐美りん「推し、燃ゆ」

芥川賞受賞作で、今一番売れている小説だ。

アイドルオタクの少女が主人公。

一口にオタクといっても、色々な種類があるという。

 

ー アイドルとの関わり方は十人十色で、推しの全ての行動を信奉する人もいれば、善し悪しがわからないとファンとは言えないと批評する人もいる。推しを恋愛的に好きで作品には興味がない人、そういった感情はないが推しにリプライを送るなど積極的に触れ合う人、逆に作品だけが好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人、お金を使うことに集中する人、ファン同士の交流が好きな人。ー

 

わたしはどれだろう、と考えた。

小説の主人公は、

 

ーわたしのスタンスは作品も人も丸ごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。ー

 

ということだった。

 

わたしもどちらかといえば、そうかもしれない。

作品を見るのが一番好きなのは当たり前だが、そこからインタビューを見たり読んだりするのが非常に好きである。

そして、その作品への彼の思いや、どんな作品にしたいと思っていたのか、など、トヨエツらしさを分析し、彼がどんな人か考えるのが好きだ。

 

そして、この主人公に共感したことがもう一つある。

「肉体性」への嫌悪感である。

 

ー 生きているだけで皺寄せがくる。誰かとしゃべるために顔の肉を持ち上げ、垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る。ー

 

もちろん、生理がきて毎月子宮から膜をはがすことも耐えきれない。

いつも、自分の体に違和感をもち、悩まされている。

 

そんな主人公と推しとの出会いは、「ピーターパン」の舞台だった。「大人になりたくない」となんども繰り返すピーターパンをみて好きになるのだ。

そして、その推しは、彼女の「背骨」だと言う。

身体性を拒否したい彼女の背骨。推しは自分を自分の体につなぎとめるものなのか。

(なんだかちょっとエヴァンゲリオンっぽくもある)

 

身体性を拒否する少女は、すなわち、女であることも拒否したい。だから、大人にならないアイドルの男の子になりたい、のだと思う。

 

わたしも、できればトヨエツになりたい。

トヨエツは、わたしの理想だからだ。

大学を中退して、劇団に入ってしまう大胆さ、映像表現がしたいと劇団をすっぱり辞めてしまう潔さ。

作品への取り組み方が半端ないこと、なんでもやってやるという気迫、それでいて謙虚。

だけど、自分のかっこよさなんて当然認識してるし、男っぽい傲慢さもある。

傲慢と謙虚、それらに自覚的で、クレバー。

そして、わたしが一番彼をみて恍惚とするのが、浮遊する存在感。

男でも女でもなく、何者でもなく何にでもなれる。ともすると、この世のものでもないような人。

そう、わたしの中で、彼は天使である。

 

と、オタクっぽく書いてみたが、こんな感じで、オタクって、身体性の拒否、アイドル(推し)と同一になりたい、といった欲望を持っている気がする。

 

推しが結婚すると、ファンが落胆するのは、別に彼らに恋愛感情を持っているからではないのじゃないだろうか。

彼が人間だった、と気づかされるからじゃないだろうか。

それが何よりも絶望なのだ。

 

「そっちにいったらダメよー」

友人の声が聞こえてくる…。

あれはみんなの、この世に帰れコールだったのか。

 

小説「推し、燃ゆ」は、わたしにとっては鏡のような小説だった。

年代は、親子ほどに離れているのに…。

オタクは年齢を越える、とも思ったしだい。