まるでシャボン日記

アラフィフぼっち女の悲喜こもごも

『愛していると言ってくれ』が好きすぎて

50年生きてきて、一番愛しているドラマは、誰がなんと言っても「愛していると言ってくれ」です。

少し前の再放送に興奮してドラマ論をぶってみました…。(2020年6月執筆)

 

ドラマ論「愛していると言ってくれ

2020年のコロナ禍、25年ぶりに、ドラマ『愛していると言ってくれ』(TBS)が特別版として放送された。1995年当時、金曜の夜に走って帰っては観て、さらにビデオで繰り返し観た作品だ。あの頃「沼」って言葉はなかったけれど、すっかり『愛くれ(?)』沼にハマっていたし、今回もまんまとハマり、むしろその沼から抜け出せないくらいだ。

 

このドラマの魅力は色々あるが、最大の魅力は豊川悦司の演技であろう。

あの頃はSNSもネットニュースもなかったから知らなかったが、ドラマの設定から脚本、衣装に到るまで、トヨエツがかなり意見を出していたらしい。何しろ、当初の設定では聴覚障害があるのは常盤貴子の方だったというのだから驚きだ。

 

北川悦吏子脚本作品では、女の子に優しい(ちょっと都合がいい)男が必ず出てくるが、この作品の趣が少し違うように思うのは、トヨエツの「口出し」によるものなのかも知れない。優しい男というよりも、むしろ身勝手で、頑固で、情けない、だからこそ愛おしい男性像が出来上がっているように思う。

 

メタフィクションとしての『愛くれ』

時代を遡ろう。1995年といえば、バブル崩壊の二年後、阪神淡路大震災オウム真理教地下鉄サリン事件が立て続けにおこった年である。文化的にはオカルト、サブカルが流行し、「エヴァンゲリオン」の初回放送もこの年だった。それまで強固だったはずの価値観が揺らぎ、誰もがぼんやりとした不安の中にある時代、「内側」や「精神世界」がクローズアップされた時代だった。

 

第1話は、表参道の喧騒から始まる。そこからカメラは交差点の反対側に立つ聴覚障害のある画家・榊晃次(豊川悦司)へと移り、音楽はフェードアウトして、静寂が訪れる。

晃次はそこで、女優志望のまだ少女のようなヒロイン・水野紘子(常盤貴子)と出会う。表参道の街にあるはずのないりんごの木の下で、りんごを掴もうとする少女に、男はりんごをとってやる。もちろんこのモチーフはアダムとイブだろう。そこからこの寓話的なドラマは始まる。

 

主要な舞台は、二人の居住地である井の頭公園周辺である。そこは、都会に隣接しながらも、木々と池、噴水や野外劇場のある閉鎖された空間。その小宇宙で、晃次は「風景はいい。どこへもいかない」と、静かに自然や花や空を描いて暮らしている。映像の美しさもあいまって、その世界は、現実からふんわりと浮遊する。ここは、魂の場所なのだ。(なにしろ、晃次の苗字は「榊(=神木)」なのだから)。

紘子は、その空間に「不思議の国のアリス」のように迷い込んだ少女だ。初回、彼女は森を走り、鏡をのぞき、鍵を投げ…とアリスのモチーフとともに登場している。

紘子は女優の卵であり、いつの間にか、その世界の中で、与えられた役を演じさせられているようにも見える。白雪姫のようにりんごをかじったり、シンデレラのように片方の靴が脱げたりと、おとぎ話の登場人物を思わせるシーンも頻出する。

 

そしてここは、「言葉」のワンダーランドでもある。

晃次は聴覚障害者なのだが、それゆえなおさらに言葉が強調される。手話、筆談、手紙、メモ…(見ている方からすると、ナレーションや字幕)と、その世界は言葉が強調されている。

紘子が晃次に書いた最初の手紙にはこうある。

「あなたは確かに言葉を喋らないけれど、私はいつも思っていました。私たちはたくさんの言葉を喋るけど、喋れば喋るほど本当のこととかけ離れていってるんじゃないかって」

この手紙は彼らのこれからを暗示している。最初、二人は言葉なく恋に落ちたし、晃次は画家なので、絵で語っていた。しかし、二人が出会ったことにより、言葉が生まれていく。

二人は、言葉の迷宮で本当のこと(愛)を探し始める。しかし、言葉を重ねれば重ねるほど本質から遠のいていくという自己矛盾(パラドクス)を起こしてもいく。彼らの恋愛は、言葉の迷宮からの出口を探す冒険でもあるのだ。

『愛くれ』は、言葉について(メタ言語)、物語について(メタフィクション)のドラマなのである。

 

物語に閉じ込められて

物語に戻ろう。

晃次は、障害の問題だけではなく、実母の出奔や恋人からの婚約破棄などの理由から、自分の世界に閉じこもっている。紘子はその心を開くべく、あらゆる言葉を尽くして、彼に語りかける。最初、戸惑い逃げようとする晃次だったが、

「あなたと私はそんなに違うの? だったら、私はあなたのことをわかりたい、知りたい」という紘子の言葉に、心を解かれ癒されていく。

「彼女の涙は、僕の無色透明な心に、空色の絵の具を一滴落としたように広がっていった」

そして、紘子は晃次のことを知ろうと、手話を覚え、ファックスを買い、彼との対話を重ねる。また、それだけではなく、晃次に隠れてこそこそと、写真を見たり、手紙を見たりしながら、彼の「過去」も知りたくて、かぎまわりもする。

 

第7話は、晃次が実母と再会する感動の一話だが、晃次は、「僕はよくわからなかった。母に会いたいのか会いたくないのか、恨んでいるのか憎んでいるのか、愛おしいと思っているのか」と述懐する。人からの要求を優先しがちな晃次は、義理の妹に今更実母になど会うなと言われ、それに従おうとすらする。しかし、先に母と邂逅していた紘子に案内され、晃次は自分の気持ちの輪郭を得ることができる。

「僕を産んでくれてありがとう。10歳まで育ててくれてありがとう」

紘子との出会いの中で、晃次の閉じた世界が色をもち、変わりつつあることを象徴するエピソードだ。

 

そこへ魔女が現れる。元婚約者の島田光(麻生祐未)である。

彼女の「私は彼(晃次)の声が好きだった」という嘘(晃次は声を出せ(さ)ない)により、紘子が読み解いてきた世界がほころび始める。「真実」は歪み、「約束」は守られず、「言葉」は空回りし始める。

中盤からの紘子は「もう疲れた」の連発で、疲弊し、二人の世界を支えることができなくなっていく。晃次の必死の「事情説明」とすがりつきに近い手紙によって、一度は修復をするも、魔女は容赦ない。晃次を自分のものにしたい光は呪いをかけにやってくる。その呪いはこうだ。

 

「あなた(晃次)は結局人を愛せない人なのよ。ずーっとあなただけの時間の中で生きてきたからよ。あなたが人の絵が描けないのは、心を許してないからよ。信じてないからよ。だから私はあなたから離れた。誰もがあなたから離れていくわ」

そして、晃次からもらった指輪を置いていく。それは白雪姫の毒針のように、紘子を刺すことになる。

 

晃次は紘子のいない間に光を家にあげていた。指輪によってそのことを知った紘子は、悟る。ここが晃次一人のワンダーランドであることを。そこに自分はいないのだということを。

「私は拾ってきた子犬じゃないのよ。女なのよ。あなた一度だって対等に扱ってくれたことないわ。いつもいつも上から見下ろされているような気がしてた」

「そんなこと考えていたのか」とまるで気づいていない晃次は、必死に「愛している」と手話で叫ぶ。声が出ると嘘をつかれている紘子は、その晃次に、

「手話じゃなくて、声に出してちゃんと言ってよ。愛してるって言ってよ」と叫ぶ。

しかし、晃次に声はない。彼は自分という海の底にいる人魚なのだ。みっともなく自分をさらけ出すことができない。

紘子は去っていき、晃次は、部屋に残された穴の空いた地球儀に、呪いの指輪を虚しく投げ込む。

世界は大きく破壊されたのだ。

 

紘子は子供の頃から自分を知っている幼馴染のけんちゃんこと矢部健一(岡田浩暉)の胸に逃げ込む。晃次の世界をわかろうと挑戦し、それに疲れ、自分にとってわかりやすい世界に逃げ込んでしまうのだ。

それもそうである。けんちゃんは同郷で小さい頃から紘子をみて知っているが、晃次は、紘子の世界を知ろうとはしていない。思えば、彼女の芝居を見るシーンすらない。時々劇団に紘子を迎えにはいくものの、中には踏み込まず、幼馴染のけんちゃんにすら興味はなく、ただの伝書鳩扱いである。

晃次はいつも、彼の手中にある紘子しか見ていなかった。

 

紘子がけんちゃんと関係をもったことを知らされ、崩壊した世界でただ呆然とする晃次。

そこに現れるのは、紘子のバイト仲間のマキ(鈴木蘭々)だ。あの容姿はキューピッドだろう。恋の援護をする。

「あいつ(紘子)、ああ見えても強いわけじゃないし、やっぱり女の子だし、時にはパニクっちゃうし。でもあなたが大好きだったから、だからあなたの前では元気で明るかったと思うんです」

晃次は、それまでの世界を見直して、紘子に手紙を書く。

 

「紘子、僕はなんど君にこうして語りかけただろう。なんど君の名前を心の中で呼びかけただろう。最初に手紙をくれたのは君だったね。僕の重く閉ざした心の扉を開けようと頑張る君が、僕は愛しかった。あの日、僕が初めて君を抱きしめたあの日、君は言ったね。あなたと私はそんなに違うの? 耳が聞こえないあなたと聞こえる私はそんなに違うの? だったら私はもっとあなたをわかりたい、あなたを知りたい。あの時の君の涙と言葉は、僕の心の中にずっとあの時のまま、色褪せず住んでいます。

紘子、僕は君をわかってあげられていたんだろうか。ちゃんと君の心の声に耳を傾けていたんだろうか。今君と離れてみて、これまでを振り返ってみると、さっぱり自信がありません。だけど僕は、今もう一度君をわかりたいと思っています。あの時、涙を流して、僕をわかりたいと言ってくれた君に、応えたいと思っています。

もしかしたら僕たちは、一番苦しい時を迎えたのかもしれないけれど、それでもやはり乗り越えていけるんだと思います。それでもやはりがんばれるんだと、僕は思います」

 

しかし、その手紙は正しく届けられず、代わりに紘子の元にきたのは、けんちゃんが出さなかったはずのラブレターで、彼女はけんちゃんを選ぶのだ。

 

晃次と紘子の別れの会話はこうだ。

 

紘子「私、けんちゃんの胸の中でホッとした気がする。私気づいたの、自分にとって本当に必要な人って元気がないときに一緒にいてくれる人だよね。けんちゃんはずっと小さい時から私を見ててくれた。あなたは違う。あなたは私と出会う前から一人でやってたし、いい絵描いてたし」

晃次「本気で言ってるのか?」

紘子「いつもいつも遠かった。今日一緒にいても明日になったらどっかいっちゃうような気がしてた」

晃次「どうして? どうしてそんな風に思うんだ?」

紘子「私には絵のことはわからないし、やっぱりあなたのいる世界がわからない」

晃次「耳が聞こえないってことか? わからなきゃダメか? 好きだよ、それじゃダメか? 明日も明後日もずっと紘子が好きだよ。それじゃダメか?」

紘子「ダメな気がする。私は安心できない。あなたといる間、私ははしゃぎすぎてた、いつも声一オクターブ高くなってた気がする。不自然だった」

 

紘子は晃次の世界で、もう役割を演じることができなくなり、舞台からおりる。呪いの通り、誰もが晃次から離れていくのだ(この時のトヨエツの涙がさみしすぎる)。

物語の風穴

最終話。けんちゃんと結婚するために東京を出て田舎へ帰る前日、紘子は晃次の世界である井の頭公園を訪れる。

暗号を受けとった晃次も紘子を探し、ホームの向かいにいる紘子を見つけた晃次は、彼女を呼ぶために、ついに声をだす。

「ヒロコ」

 

そして、二人は海へ向かう。そこもまた、晃次の精神世界だ。晃次は、聞こえない世界を「夜の海の底にいる感じ」と表現している。「地上にあこがれながらね」と(人魚姫のイメージ)。

そして、今まで声を出したことがないことを紘子に打ち明ける。後から明かされる真実に、世界はまた様子を変えようとするが、すでにけんちゃんとの世界の鍵は開かれてしまっていた。

晃次は紘子に、最後に君の声が聞きたいと頼む。

「アイシテイル、と言ってくれ」

晃次は深い海のそこから陸に上がってきた人魚のように浜辺にひざまづき、紘子は唇を彼の肩にあて、自分の声を彼に聞かせる。まるで呪いをとくかのように。

晃次は、紘子の声を聞き、彼女を尊重し幸せを願うことで、ようやく誰もいない静寂の世界から出て、人を愛することができたのかもしれない。自分の世界が泡と消えるのと引き換えに(そういえば、前日に二人が飲んでいたのはシャンパンだ)。

 

グリム童話のイメージがドラマ中なんども出てくるが、最後が人魚姫のイメージであることには注目したい。

人魚姫はグリム童話の中で、唯一能動的な主人公とされている。おやゆび姫や白雪姫、シンデレラにしても、彼女らは自ら行動したのではなく、運命的にプリンスと出会い、見初められる。そしていずれ自分たちが魔女(母親)になる運命であり、物語の外側に出られることはないだろう存在だ。

だが、人魚姫は自らプリンスを選び、彼のために陸に上がり、自分の世界を捨てて、彼のために海の泡になるという選択をする。人魚姫の愛はどこへ行ったのか、無為のようであってなぜか永遠に強くあり続けるようにも思える。彼女は魔女になることもないし、その物語は、閉じた世界からの風穴そのものではないか。

 

バスに乗り、トンネルを抜けていく紘子。それは晃次の世界から出て行くことを示唆している。アリスがトンネルを抜けていくように。

二人の世界は分断される。

井の頭公園の晃次の家はもぬけの殻になる。

紘子は、田舎へは帰らず、遅れてきたあの手紙を受けとる。

 

3年後、二人は出会った場所で再会する。男から女へりんごは再び投げられ、物語は繰り返されるようだ。これはループする物語。もしかすると繰り返す物語の中に、出口のない言葉の世界に、永遠に閉じ込められてしまったのかもしれない。

けれど、ラストシーンに映る晃次が描いた絵は、波から顔をだす紘子だ(もしかすると、晃次自身もミックスされているのかも)。それは、閉じ込められた自分という世界からの浮上を意味しているだろう。

 

2020年、リピートする物語

翻って、現在。2020年、世界は厳しい時を迎えている。コロナウィルスは人々を分断したり、対立させたり、不安に陥らせたりしているように見えるし、世界ではレイシズムナショナリズムが広がっているようだ。

ネットの普及によってコミュニケーションは格段に便利になり、人々はもっと繋がりやすくなったはずなのに、SNSでは人々はお互いを攻撃し傷つけ合うか、礼儀だけは正しく身につけ、傷つくことを恐れて自分を守るようになっているようにも思える。

 

けれど、どんなに世界が不安定だとしても、簡単に安心や楽さに逃げてはいけないんじゃないだろうか。自分だけの安住の地に閉じこもるのではなく、他者との対話を諦めてはいけないんじゃないだろうか。

対話することで傷つき、裏切られ、自分の守ってきた世界は壊されるかもしれない。けれど、わかりあい理解することを諦めてはいけないんじゃないだろうか。

世界が壊れてもそこからまたやり直せばいい。もしかしたら同じことの繰り返しかもしれないそれど、何度でも、何度でも、私たちは乗り越えていかなければいけないんじゃないだろうか。

 

「もしかしたら僕たちは、一番苦しい時を迎えたのかもしれないけれど、それでもやはり乗り越えていけるんだと思います。それでもやはりがんばれるんだと、僕は思います」

 

今、このドラマにもう一度出会えたこと、もう一度リピートすること、それもきっとこの作品の一部なのだ。

 

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マルタ島の青の洞窟にて空

 

※ちなみに、純粋に恋愛ドラマとしてとても楽しめるエンタメ作品です。念のため。